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死ねばいいのに

「死ねば良いのに」考

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「死ねば良いのに」

自分はその言葉を昔から使っていた。ダウンタウンの某番組が始まるより、遥かに前の話だ。


とりあえず結論だけ言えば、「死ねば良いのに」という言葉の存在ーそれを公共の場で使ったり、人に向けたりーに拒絶反応をする人は、「自分には生きる価値が有る」と思っていたり、あるいは自分の人生を他人の不条理によって歪められる事の無い幸せな人なんだろう。


自分はある時から、自分に生きる価値がある思えなくなってしまった。

生を望めなくなってしまった。生きなければいけない理由がなくなってしまった。


それは自分のどうしようもなさに気づいた時からかもしれないし、

他人から評価をされない自分に気がついたときからかもしれない。

いずれにしても、自分という存在が、どうにも無価値にしか感じられなくなってしまった。

だから「死」に対して特別、拒否感嫌悪感は抱いていない。



「人間が生きることは何ものにも代えられない」

拒絶派が「死ねば良いのに」を否定する理屈は主にそこだったりする。

だが、例えば2000万人を粛正したスターリンを、「死ねば良いのに」と考え、その死を公然と願うことは、間違っているのか。


ある人間によって、自分が受容できない程の被害を被るような場合、その人間の考えを変えられないとしたら、あるいはその人間の行動をどうやっても自分では止められないとしたら、もはやその人間の死を願うことしか被害者には出来ない筈だ。それは間違っているのか。


死は時としてその他の選択肢と天秤にかけられる。

それゆえ、死は相対的なものであって、絶対的ではない。




「死」をあまりに敬い、忌避しつづける連中というのは、「死」を絶対的な終焉と見なすが、それはそいつらが主観的にしか物を見れないからだろう。だから主観的な絶対的終焉に対して異常なまでの恐怖と忌避感を抱く。

だがそういう奴は総じて、他人の考えを理解できないし、また自分が他人に迷惑をかけても自覚していない。

そして自分のネガティブな側面に気づかないまま生を謳歌している。

別にKYな連中に対して俺は拒絶したりしない。多数から一方的に自分の行動を否定される事の不条理さを知っているから、たとえKYでも優しく見守ることにしている。



だが、それが自分に対して言論弾圧を行うなら話は別だ。

しかも彼らの行動の論拠は忌避感という一方的な感情論ときている。


「死ねば良いのに」

俺がその言葉を最初に使ったのは他人に対してではない。自分に対してだ。そこから始まっている。


だから拒絶派に対して言いたい。

もし「死ねば良いのに」という言葉を否定したければ、俺に、生きる価値を与えてくれ。生きたくなるような世の中にしてくれ。明日を絶望させるような政策を実行しようとしている連中の考えを合法的に変えてくれ。



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